■日本ロケット協会稲谷会長の連載(ロケットニュースより)

 
日本ロケット協会 会長 稲谷 芳文 


宇宙のまがり角(11)
 

この夏イプシロンが上がります.内之浦からの衛星打ち上げは2006年の「ひので」から7年の時間が過ぎました.この間いろいろなことがありましたが,Mロケットの頃の大忙しの状態がまたやってくるとよいなと思います.

M−Vからイプシロンへのトランジションは,それまでの宇宙科学によるロケット開発の論理とは異なり,時代も変わって,日本において世界の中でも極めてユニークな生まれ方と育ち方をして発展してきた固体ロケットによる衛星打ち上げ機を,ある意味では,宇宙科学の専有物ではなくして,経済合理性の世界に引きずり出した,とも言えるのでしょう.それはそれで世の中の必定,とも言うべきなのでしょうか.

M−Vに至る日本の固体ロケットの発展の歴史は,それこそ糸川ペンシルのゼロからの出発と,宇宙科学の世界の中で,ある意味自由に,宇宙科学の中であったが故に,外からの干渉も排除できて,独自の進化を遂げ,研究マインドの極めて強い,性能追求型の,逆に言えば,コスト意識よりも面白いことを極める研究や開発の環境が長年維持されてきた結果だと思います.そのせいで全段固体としては,世界水準を凌ぐ打ち上げシステムを,日本において独自に創り出し,ミッションの対応も科学衛星や惑星探査機という世界を構築し,これらを生み出し世話する集団もこれまた特殊なマインドを持ったわがまま研究者集団として,日本の宇宙科学を世界のレベルに引き上げ,世界における今日の地位を築くのに不可欠の存在として機能してきました.最近ESAが上げ出したベガは全くもって,日本でやってるMロケットがうらやましい,と思って作ったモノに他なりません.でもそれ故にひょっとしたら時代遅れかも知れません.

一方で,ロケットの打ち上げ,と言うことがある意味で日常化し,やってみないと分からない,と言うことが段々減ってきて,まあフツーにやっていればロケットとは上がるもの,と言う世界に段々なってきて,「稲谷くん,なんだか最近は打った後で,うまく行ってよかった,と言うより,失敗しなくてよかった,と思うようになってきたんだよなあ・・」とは,M−Vの何号機だったかの松尾先生との会話.これはある意味定常的にロケットを上げる世界が作られて,なんだか新しいことに次々挑んでいる,と言う程度が減ってきている事の現れで,しばらく前までは右肩上がりの能力拡大,または,やったことのない世界にめくるめく突入していく,という,何回か前の糸川先生の話しの時に書いたような時代から,ある種の成熟を見て,と言う環境の変化と,それと同時にやってるヒトのマインドセットの変化が起き始めている,との感覚でしょうか?物事は理想的な状態では永遠には続かない,とは祇園精舎の何とやらです.

ただし一方では,それでは,宇宙研のロケット屋は新しいことにトライしたりチャレンジしたりしている状況を作れたか,もしくはその環境はどうであったかというと,これもどこかで書いたように20世紀から21世紀への変わり目と,景気の後退や冷戦構造終了の混乱の中で,いろんな打ち上げなどの失敗が続いた後の説明責任恐怖症シンドロームの時代を経て,それこそ失われた何とやらの世界になってしまっていて,宇宙に関して次の目標を持ちにくい,と言う世の中になってしまいました.なんだかM−Vを止めただけ,のようなことになりかねない状況の中で,多くの方の努力でイプシロンの立ち上げまでこぎ着けられたことは僥倖でしたが,一方でその設計は必ずしも十分に研究開発マインドを満足させるものでなく,ある意味では極めて妥協的なロケットにせざるを得なくなって,森田くんはじめプロジェクトの連中は多くの制約の中で,精一杯よいロケットにしようとがんばった結果,漸く打ち上げにたどり着きました.

もう一つ我々がMの打ち上げをずーっとやってきて思うことは,守備範囲の異なる研究者や技術者が現場を共有することのベネフィットで,まあならして年に一回,衛星屋もロケット屋も理学も工学も東京から隔離された合宿モードで,打ち上げとはウエイティングオペレーションなので,大体は打ち上げ以外のバカ話ばかり.「稲谷くん,これどうなる?」と,金星でヒコーキを飛ばすにはどうすればよいか,とか,火星の大気から帰りの推薬を作ったらどうなる,とか,なんだか次々アイデアを練る場になって,コントロールセンタで昔のえらいセンセに試される,とか,打ち上げて帰りには,そーかよし次はこれで行くか,と次のミッションが決まってたり,などという場になっていたことです.最近のITの時代になってこういう状況も様変わりですが,それでなくてもみんなが時間と空間を共有する場面が極端に減っていく中で,これは得難い機会であったことは事実で,宇宙研のある種のアイデアを実行に移すモト,となっていたことです.内之浦に行く,とは打ち上げの仕事や世話のみならず,そう言うことをするためでした,と言っても過言ではありません.

ともあれイプシロンが上がります.ロケットそのものが変わったことのみならず,仕事のやり方やその文化などのロケットを転がす現場の変化にも思いを致したいと思います.次の世代のみなさんで,よい仕事の場を是非とも作ってもらいたいと思います.

今月以上



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第1回 宇宙のまがり角(1)
第2回 宇宙のまがり角(2)
第3回 宇宙のまがり角(3)
第4回 宇宙のまがり角(4)
第5回 宇宙のまがり角(5)
第6回 宇宙のまがり角(6)
第7回 宇宙のまがり角(7)
第8回 宇宙のまがり角(8)
第9回 宇宙のまがり角(9)
第10回 宇宙のまがり角(10)
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